最高裁判所第一小法廷 昭和60年(あ)203号 決定 1985年7月03日
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人大矢和徳の上告趣意第一点は、憲法三六条違反をいうが、その実質は単なる法令違反の主張であり、同第二点は量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
なお、犯人が他人を教唆して自己を隠避させたときに、刑法一〇三条の犯人隠避罪の教唆犯の成立を認めることは、当裁判所の判例とするところであり(最高裁昭和三五年(あ)第九八号同年七月一八日第二小法廷決定・刑集一四巻九号一一八九頁参照)、原判決の是認する第一審判決が被告人について犯人隠避教唆罪の成立を認めたのは相当である。
よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、主文のとおり決定する。
この決定は、裁判官谷口正孝の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
裁判官谷口正孝の反対意見は、次のとおりである。
一 犯人が他人を教唆して自己を隠避させた本件の如き事案について、犯人隠避教唆罪の成立を認めるべきか否かについては、判例と一部の学説との間に見解を異にするものがある。多数意見は、最高裁昭和三五年七月一八日第二小法廷決定・刑集一四巻九号一一八九頁を踏襲してこれを積極に解した。その理由は、不可罰行為とされているところの犯人が自ら隠避する行為と他人を教唆して自己を隠避させる行為(本件の場合は暴力団員である被告人が自己の犯した道路交通法違反事件について配下の組員に命じてその者を自己の身代わり犯人に仕立てあげた事案である)との間には、法的評価において自ずから異なるものがあることを強調するものと思われる。確に、弱い立場にある配下の組員に自己の犯した罪の責任を転嫁し、自らは罪を免れようとした被告人の行為は卑劣である。然し、そのことと、この場合、被告人を犯人隠避教唆罪に問えるかということとは別の問題である。私は、この場合、やはり消極に解すべきものと考えるので、以下その理由を述べる。
二 犯人が他人を教唆して自己を隠避させた場合、犯人隠避教唆罪の成立する理由として、判例のあげるところは次の二点である。その一は、被教唆者について犯人隠避罪が成立する以上、その実行を教唆した者について犯人隠避教唆罪の成立することは当然である、とするものである(証憑湮滅罪の教唆犯の成立を肯定した大審院昭和一〇年九月二八日判決・刑集一四巻一七号九九七頁参照)。他の一は、犯人の防御権の濫用を理由とするものである。大審院昭和八年一〇月一八日判決・刑集一二巻二〇号一八二〇頁がそれである。理由づけはかなり詳細である。曰く「犯人カ其ノ発見逮捕ヲ免レントスルハ人間ノ至情ナルヲ以テ犯人自身ノ単ナル隠避行為ハ法律ノ罪トシテ問フ所ニ非ス所謂防御ノ自由ニ属スト雖他人ヲ教唆シテ自己ヲ隠避セシメ刑法第百三条ノ犯罪ヲ実行セシムルニ至リテハ防御ノ濫用ニ属シ法律ノ放任行為トシテ干渉セサル防御ノ範囲ヲ逸脱シタルモノト謂ハサルヲ得サルニヨリ被教唆者ニ対シ犯人隠避罪成立スル以上教唆者タル犯人ハ犯人隠避教唆ノ罪責ヲ負ハサルヘカラサルコト言ヲ俟タス」と、前記最高裁第二小法廷決定は、理由を示してはいないが、これらの大審院判例と同一系列の思考に出たものと思われる。然し、私は、これらの判例の理由とするところには、必ずしも説明の尽されていないものがあると考える。犯人が自ら隠避する行為は、犯人の防御の自由に属するというのであるが、そこにいう自ら隠避する行為というのは、犯人が刑罰請求権の行使を免れるためにする一切の行為のうち、唯単に自ら逃げ隠れする行為だけになぜ限定されるのかについては説明がない。犯人が他人を教唆して自己を隠避させる行為もまた犯人の自己隠避行為の一場合ではないのか。前者が法律の放任行為として法の干渉しない行為であるのに、後者の場合は防御権の濫用となるのはいかなる理由によるものか説明として聴くべきものはない。つきつめて考えれば、被教唆者について犯人隠避罪が成立する以上、その罪を教唆した犯人に対して同罪の教唆犯が成立するのは当然ではないか、ということに尽きるのではなかろうか。
もっとも、これらの判例を支持して責任論の立場から犯人が自ら隠避する場合と他人に犯人隠避の罪を犯させてまで隠避の目的を遂げる場合とでは情状が違い、前者の場合には定型的に期待可能性が欠缺するが、後者の場合にはもはや定型的に期待可能性がないとはいえないとする説がある。そして、さらに行為の違法性を考え、「教唆犯には、他人の行為を利用して犯罪を実現するという反社会性のほかに、教唆によって新たな犯罪人をつくり出すという反社会性がある。それで、自分自身で行えば、犯罪にならない行為でも、他人を教唆してそれを実行させた場合には、その教唆犯として処罰すべきである」という観点から、犯人が他人を教唆して自己を隠避させた場合犯人隠避教唆罪の成立を肯定する見解もある。
いずれも傾聴すべき見解ではあるが、責任論の立場で事を論ずるとすれば、しょせん見解の相違ということになろうし、教唆犯が新たな犯罪人をつくり出すといういわば正犯に加算された反社会性ということを問題にするとすれば、教唆犯がそのように二重に評価される所以を理解し難いばかりでなく、教唆犯を正犯に準ずる(刑法六一条)とした刑法の趣意といかに調和するかについても問題を残すであろう。私としては、積極説に未だ十分な根拠を見出すことができないのである。
三 思うに、正犯として不可罰な行為は、共犯としてした場合であっても原則として不可罰である。しかも、刑法一〇三条所定の犯人蔵匿・隠避の罪は、行為定型として蔵匿し・隠避させる者と蔵匿・隠避される犯人の両者を必要な成立要件としている。犯人が単独で、自ら逃げ隠れする場合までを、ここにいう犯人蔵匿・隠避にいれて考えることは、実に用語としても正当ではあるまい。
このように、同罪が、蔵匿し隠避させる者と蔵匿・隠避される犯人の両者を関与形態として予定し、しかも同罪が成立するについては、後者から前者への働きかけをするのが通常の事態というべきであり、立法事実としても当然そのような事態を考えたであろうと思われるのに、刑法は前者についてのみ処罰規定を置いているのである。本件はまさに右の通常の事態にあたる。そうだとすると、対向的必要的共同正犯としてとらえられる犯罪について、法が一方の関与行為者のみを処罰している場合他方の関与者は不処罰とした趣旨であると考える思考形式がここでもあてはまる。
配下の組員をして被告人の身代わり犯人に仕組んだ被告人の行為は卑劣である。しかし、その点は、道路交通法違反罪の犯人として被告人を処罰する場合の悪しき情状として考慮すれば足りるのではないか。以上の次第で、私は、犯人隠避教唆罪の点について被告人は無罪と考える。
(裁判長裁判官 和田誠一 裁判官 谷口正孝 裁判官 角田禮次郎 裁判官 矢口洪一 裁判官 高島益郎)